GL育成塾・ミッションステートメント提出


サマコンでの大舞台では、本当にいい経験させて頂きました。

5,000人の国立大ホールが満員でのパネリストなんてたぶん一生無いでしょう。
卒業の年に本当にいい思い出をありがとう。

さてあとは10月の卒塾式・・・だけではなく、しっかり夏休みの宿題も。
講師が推薦する本を読み、ミッションステートメントとグループの政策課題を仕上げなきゃいけません。

戦略家ニクソン―政治家の人間的考察
田久保 忠衛

敬愛してやまない我が師、田久保先生が博士号を取られた論文。

一般的にはウォーターゲート事件で失脚した大統領としてイメージが悪いのですが、田久保先生といい、国基研はニクソンファンが多いのかな?その功績やその魅力について書かれています。

人間的考察はそう多くなく、一夜にして世界のパワーバランスを成立させていく手腕を事実に基づき解析されているところは田久保先生ならでは。日本の外交的視野の欠乏と稚拙への嘆きがなんとも情けない気持ちにさせてくれます。

最終章には「ニクソン以前にニクソン無し、ニクソン以後にニクソン無し」と思い入れがあふれています。
それは先生が30代、ワシントンでニクソン政権をリアルタイムに追った青春を重ねられているせいでしょうか。

何のバックボーンも無しに、37歳で上院議員に当選するも、ケネディに敗れ、州知事選に敗れ、ウォーターゲート事件で大統領の座を追われるという、とてつもない大きな挫折を3回繰り返す。しかしその度に不死鳥のようによみがえってきたニクソン。
ニクソンが書いた本をじっくり読んでみたくなりました。

ただ、田久保先生並びに国際政治の歴史学に興味がない人には全くお勧めできない一冊であります(笑)

「南京事件」の探究―その実像をもとめて
北村 稔

著者は南京事件の考察について「虐殺派」「まぼろし派」「中間派」と分類。
その各派の日本近現代史における歴史認識が中国やアジア諸国における政治姿勢へと連続し対立する、としています。

虐殺の有無を性急に論じるのではなく、根拠とされている資料の批判を交えながら論した一冊。
30万という数字は国民党と結託していたジャーナリスト、テインパーリーや学者スマイスの構築した幻であって、外交カードにされてしまった。ただし戦争犯罪そのものを否定する論調ではないところに好感が持てます。

戦争は破壊と殺戮の集合であることは間違いがない。

そして同時に外交の最終形態でもあります。
主権を保ちつつ戦争を回避できるパワーバランスをどう維持するかが、平和の構築と同義である。
インド、フィリピン、モンゴル、チベットで彼の国が何をしてきたか、何をしているか。
現代の侵略覇権国家、彼の国に対峙するためには理論武装も必要ですね。

逝きし世の面影
渡辺 京二

塾頭推薦の本。そのブ厚さにちょっと引く。

しかし読み進めると、論文調ながらサクサク読めます。

明治黎明、江戸・徳川時代に訪れた外国人の目に「パラダイス」「ユートピア」と映った日本の文化・民俗学についてまとめられてあります。
それは勤勉、正直、足るを知る、利他の心、超楽観主義、といった近代化と引き換えに我が国が失いつつある大切なものでもありますが、それを復活させよう、守ろう、と考えている現代人がいる事も信じたい。
特に江戸時代の日本の風景や子どもについてのくだりはとても面白かった。

手放しの賛美ばかりではなく否定的な主張、数多くの引用文献もまとめてあるので資料的価値も高い。
じっくり読みたい気持ちのいい一冊。大著という言葉がしっくりくる満足感をお約束。

以下はグループでまとめた政策論文
国民の手で憲法が改正できるシステムを導入しよう、というもの。
もう少し精査が必要かも。

・現状
大東亜戦争、いわゆる第2次世界大戦終結から68年、我々は東西冷戦や幾多の紛争、大規模テロや金融危機を経験した。その間に世界は二大国がリードする旧来の体制から次第に多極化し、経済・文化・科学・外交・軍事における新たな秩序が日々模索されている現状がある。そして、世界でも有数の悠久の歴史を持つ我が国は、世界第3位の経済大国でもあり、意図せずとも世界に与える影響は依然として大きく、多国間の協調に目を向けた国家たることは当然の責務といえる。
そして、我が国は国家統治の基本方針とも言える憲法について改めて向き合う場面に立たされている。本来、憲法とは主権者たる国民自らが考え、創り出し、現状に即しないものとなったならば改正、すなわち適宜更新していくべきものではないだろうか。しかし、現行の日本国憲法は制定以来一度も手を加えられていないという事実があり、意図せずとも硬性憲法と「なってしまった」という表現が適当である。これは戦後復興を第一義とした「吉田ドクトリン」軽武装経済重視、安全保障をアウトソースするといった国策をとり、歴代政権がその外交方針を踏襲してきたことも原因として考えられるだろう。また、制度的・機運的に改正に至らなかったことも原因である。
制度としての原因は、改正のための具体的な手法としての政令がなかったことの不備だが、現在は国民投票法が制定され、憲法改正の際の手段が整備されつつある。また、機運としての原因は、戦後の東西冷戦構造の中で経済発展が継続し、幸運にも国家的危機に見舞われなかったため、我々国民が改正に目を向けない、いわゆる変化を求めない、という選択をしてきたと言えるだろう。

・課題
我が国は議会制民主主義に基づく法治国家である。国民自身が主権者であるが、主権者どうしがぶつかり合わないための公共の福祉、公共の利益を増進するべく、国に法律を定める権限を与えている。憲法は法律を定めるガイドラインでもあり、国がすべきことの下限と、してはいけないことの上限を定めている。いわば国民が国を縛るためにあると言える。
憲法を改正する場合、改正へのハードルを高くするか低くするか、といった議論がある。ところが制定時の時代背景もあり、改正へのハードルは高く、という目的のみが盛り込まれ、国民の利益や立場に基づいた改正を想定していない。
その為に、憲法の「拡大解釈」という手法によって「戦力の不保持」という現実との齟齬が生まれている。また非常事態条項、環境権、地方自治についても条文が欠落しており、時の政権によって「解釈」は異なり、国策や外交が左右され、国益が毀損されている。憲法改正へのハードルや制度を改めて見直す事は喫緊の課題である。

・将来ビジョン
日本国憲法は改正へのハードルが非常に高く、その中で最善を尽くそうという努力を喚起するメリットが考えられるが、めまぐるしく変化する国際情勢への即応性は期待できない。また、制定時に想定されていない状況には対処する事ができないデメリットがある。ここに国民の発議による改正制度を盛り込むならば、国家のあるべき姿、歩むべき方向を国民自身が決めるという「国民主権・民主主義国家」のあるべき理想像にさらに近づくことになる。
ただし、改正を発議する国民に「国家国民の為に国益を増進する」という志、強力なリーダーシップや思想がない場合、政治的判断に一貫性がなくなる、国民の負担や不利益が高まる改正ができない、といった決定がくだされてしまうといった不安要素が考えられる。しかし、国民の政治参画意識が高まる、国と国民が対等なカウンターパートとなる、政党以外の枠組みでの政策運動が高まるといった、新たなる可能性を国民が手にすることによって、我が国は必ずやその品格にふさわしい決断力を持った国家となるだろう。

・政策
国民が当事者意識をもって憲法と向き合い、国民と憲法の関係を確立するための“憲法論議”を広くいきわたらせることは、護憲改憲によらず重要である。その上で国民自身の機運の高まりによる憲法改正に至る政策として「国民発議」制度を提言する。これは国民の発議から始まる改憲制度である。

政策名:国民発議による憲法改正

内容:日本国憲法第九十六条に以下の条項を付帯する
「国民は、選挙権を有する者の総数の五十分の一以上の者の連署をもつて、その代表者から、国に対して改廃の請求をすることができる。」

趣旨:国民の側から法案を議会に提出し、議会が審議する制度。議会が動かない時に、国民が自分たちで法案をつくることが可能。最終的に国民投票で国民に賛否を問うので、まさしく、国のあるべき姿を国民が決める仕組み。

施行:政令による

備考:五十分の一の根拠として、
1.憲政の安定性、国民投票コストを考慮し、改憲請求の乱発を防ぐ必要がある。(有権者数の50分の1=およそ200万人の署名)
2.とはいえ、現実不可能な設定では、国民の当事者意識を喚起できない。
3.よって現行の住民投票制度に習い設定。(地方自治法12条、74条)

現行制度との比較:
現在は改正に至るまで、①国民の意思(選挙)、②議会(国会発議、両議院ともに三分の二で可決)、③国民投票(過半数で可決)という流れであるが、この制度は①国民の意思(国民発議)、②議会(両議院ともに過半数で可決)、③国民投票(過半数で可決)という流れを取る。改正を発議する現行制度は最小限の多数決(三分の二)を当然として、国民の要望による改正は賛成か反対かのみを問えばよいこととするもの。

ミッションステートメント(いわゆる卒論みたいな決意文)は恥ずかしいので非公開(笑)

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