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会派視察にて岩手県立大槌病院を訪れ、大槌病院をはじめとした地域の復興状況や、大村市から被災地支援の為に移住された医師、宮村通典氏に面会し、活動状況をお伺いした。

先ずは、院長である坂下伸夫先生に大槌病院の被災状況および復興状況についてご説明を頂いた。

大槌町は北上山地に発してほぼ並行して南東方向へ流れ、太平洋に開けた大槌湾へと注ぐ2つの川である大槌川と小鎚川が形成する、沖積平野部が地域の中心をなす町である。大槌湾の北には船越湾もあり、人口は大槌湾に面した海沿いに集まり、鉄道や主要道路も海岸に沿って走っている。北上山地の一端をなす西部は人口が少ない。

現時点での人口は12,300人。40%を超える高齢化率に悩み、毎年約100名の社会減が発生しており、同町を離れた住民のUターンが進んでいないという。平成29年度の一般会計予算は約548億円。復興事業費がその会計規模を膨らませていると言えるだろう。

江戸時代からの「南部鼻曲がり鮭」[1]の伝統を引き継ぎ、水産業が盛んな土地だった大槌町。町の大半の人々が暮らす海沿いの地域に面した大槌湾には、 人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルといわれる蓬莱島も浮かぶ、風光明媚な町であった。

東日本大震災においては803名が死亡(被災関連死含む)、行方不明者数は479名。平成27年国勢調査(11,759人)から22年調査(15,276人)にかけての人口増減率は23.02%の減少で、岩手県全体の3.80%を大きく上回っただけでなく、陸前高田市の15.20%、山田町の14.99%などを抑え、県内最大の減少率である。

震災によって発生した津波は、そんな町の大半をほぼ壊滅させ、町庁舎にいた町長をはじめ、 多くの職員も行方不明となり、行政機能は麻痺。その後の火災によりさらに被害は広がり、数日の間、町は外部から孤立した状態となった。[2]

大槌病院も被災し、大津波により二階まで浸水し病院機能が停止した。入院患者やスタッフ、地域住民と共に150名が病院屋上に避難。降雪の一夜を過ごす。二日後に入院患者を避難所となった大槌高校へ移動。当日より同避難所にて医療救護を実施した。6月には仮設診療所を開設し、仮設プレハブでの診療を5年間続けた。

病院の再建に関しては、人口減少を見据え廃止も含めた検討がなされたが、地域住民の再建を望む声が強く、新築再開が決定。平成26年7月に建築工事が開始され、平成28年5月に竣工した。被災以前のベッド数は139床であったが、50床までダウンサイジングされた。これまでは、自己完結型病院(拡大志向)であったが、地域完結型(ダウンサイズ・地域のベッド)に移行したという。同地域では医療資源も限られており、最先端医療の提供は難しいとのこと。県立釜石病院(ベッド数200床)と連携しながら、地域包括ケアシステムの一員として回復期対応を中心とした医療提供を続けているという。

常勤医師は5名、それぞれの年齢は71歳,70歳,57歳,56歳,47歳。平均年齢が60.2歳とこちらも高齢化しており医師不足に悩んでいる。院長の坂下氏は56歳で医師のなかでは二番目に若く、今後は遠隔医療に取り組みたいとの事であった。

なお、坂下氏が院長として着任したのは1年前であり、被災時から復興の指揮をとったのは、前院長である岩田千尋医師である。通常は転勤を繰り返す勤務医でありながら、38年間大槌町民および近隣住民の健康管理に貢献された。被災から数日間にわたる停電と断水の中で懸命に医療活動に従事するとともに、入院患者を安全な場所に移送すべく奔走。震災後も定年退職を延長し、全力で医業に取り組まれた姿勢が評価され、第3回日本医師会赤ひげ大賞[3]を受賞された。

大村市から被災地支援の為に移住された医師、宮村通典氏は平成23年9月、長女のご主人が岩手県出身という縁で被災地を訪れたとのこと。甚大な被害状況を目の当たりにし、復興に相当な時間がかかると感じたという。また、震災当時は母校である長崎大学医学部のDMAT [4]が大槌町で活躍したとの事で、その縁も感じたとのことであった。

程なく勤務していた病院を退職し、仮設の診療所において心療内科を中心に活動された。当時は退職金が底をついたら大村市に帰ろうかと考えていたということであったが、同病院から職員として迎えられ6年目、現在も病院参与として活躍されている。震災から6年、長引く仮設住まいで神経をすり減らし、不眠やうつに悩む患者が多いとのこと。復興住宅の新しいコミュニティーになじめない。子どもが県外に出て独居になった高齢者や、最近は自治体職員の受診も増えたという。自らも被災者で、市民のために懸命に頑張り「燃え尽き症候群」の状態。「少し休んだら」と言うと、「休んでいいんだ」と泣き崩れた人もいたということであった。

新病院竣工を契機に、新たな支援先として福島県への移住も検討したそうだが、病院職員の皆さんから引き留められているとのこと。岩手山への登山を楽しんだり、70歳の記念としてハワイ真珠湾への戦没者慰霊にも赴いたとのこと。宮村氏は僧侶(日蓮宗)でもあり、被災地の慰霊活動なども行われている。

 

所見:大槌町には復興の槌音が響いていたが、復興はまだまだ道半ばであると感じた。被災した役場などは震災の遺構として保存の是非が議論されているという。宮村氏からは「当初は支援の為に移住した医師、ということでよく取材を受けていたが、最近はマスコミも来なくなった」と話されていた。

震災から6年が経過、その後も日本全国において大災害が幾度も発生したのは御承知の通りである。東日本大震災をはじめとした各地の震災の記憶を決して風化させてはならない。また、改めて「備えあれば憂いなし」災害には常に備えておかなければならないし、平時からの定期的な防災訓練や非常食等の防災用品の準備が必要である。自助・共助・公助の精神が叫ばれて久しい。「向こう三軒両隣」お互いに顔が見える地域コミュニティの維持の大切さ等も再認識させられた意義ある視察であった。

宮村通典(みやむらみちのり) 略歴:

昭和20年(1945)11月 長崎県大村市にて出生 大村育ち

昭和48年(1973)3月 長崎大学医学部卒業

4月 九州大学医学部心療内科入局,

消化器班でストレス潰瘍の研究

昭和59年(1984)6月 宮村内科胃腸科クリニック開業(博多駅前)

平成10年(1998)4月 身延山大学 科目等履修生として在学

平成12年(2000)5月 日蓮宗教師(権大講師)となる

6月 大阪豊能郡 真如寺 入山

平成14年(2002)4月 大村市 観音結社 教師

5月 大村市 仲澤病院就職 理事・副院長として勤務

平成23年(2009)4月 岩手県立大槌病院(仮設)勤務

現在 大槌病院参与、内科・心療内科医として勤務中

 

[1] 江戸時代、大槌の城主だった大槌孫八郎が、地元で獲れる鮭を塩蔵加工、商船を仕立て、江戸の町に流通させた。 加工された鮭は、産卵が近づいた鼻の曲がったものであったため、江戸の人々に「南部鼻曲がり鮭」として珍重されたという。

[2] NHK 東日本大震災アーカイブス

[3] 日本医師会と産経新聞社が共催し、地域に密着して人々の健康を支えている医師の功績を顕賞。広く国民に伝えるとともに、次代の日本を支える地域医療の大切さをアピールする事業として平成24年に創設。全国の都道府県医師会から推薦された候補者から、毎年1回、5人を選考委員会で選定し表彰する。

[4] 災害派遣医療チーム;Disaster Medical Assistance Teamの略。DMATは災害が発生した時に早い段階で現地に入り医療活動を行う、専門的なトレーニングを受けた医療チーム。被災地の病院の支援を行うことや、被災地域の病院が壊滅的な被害を受けた場合には被災地域外の安全な病院へ重症患者を搬送することを任務としている。