6時起床、ホテルの朝食会場には高校球児だろうか、坊主頭の学生が沢山で元気が良い。
ホテル内では調理ができないのか弁当が支給される。味噌汁は粉末タイプをポットのお湯で溶いて頂く。壁にはクラックが入っていた。
朝食を済ませて8人乗りのレンタカーに8人乗車。宮城県亘理郡は山元町の社会福祉協議会へ向かう。
高速道路は通行できるがところどころ段差がひどく車が跳ねる。これも地震の爪跡。
車窓から瓦が落ちた民家やアスファルトの亀裂が見てとれる。
社協のボランティアセンターへ到着。自衛隊の指揮所にもなっていた。
打ち合わせと注意事項など。
先日も津波注意報が出たとのことで緊急時の避難についても注意される。
まだまだ地震は終息していないようだ。
軽トラックと竹ぼうきやスコップ、土のう袋を与えられ被災されたYさん宅へ。
支援内容は個人宅の復旧作業。
海岸から三キロ離れてるというお宅は1階が津波の被害を受けられた。
自宅内は清掃が一段落しており、敷地内のガレキと土砂を撤去する仕事だ。
空港から安全靴、作業ツナギと気合が入っているのは島原JC、H理事長。復興支援ボランティアは二回目だとのこと。
ゴーグルを装備され、使い捨てのマスクなどを人数分用意されていた。
有り難く頂くことに。助かりました。
前回参加された工程は5日間、テント暮らしで食事はカップラーメンだったという。お疲れ様です。
天気は快晴、34度での屋外作業、汗が滝のように流れ落ちる。
センターから渡されたクーラーボックスには水と梅干しが用意されていた。
中にはハングル語のペットボトルが。韓国からの支援物資なのだろう。
水道が使えるようになったのは1か月前、電気はまだ来ていない。
なのでYさんは避難所暮らし。日中は自宅に来てボランティアの方々と復旧作業をやるのだという。
一階は床が開けられ、石灰が撒いてある。道路にはトラックが消毒液を撒きながら走っている。これらは防疫の為だろう。
私達の復旧支援は一瞬でしかない。
しかしYさんはこの現状に毎日向き合っていられると思うと、胸が痛む。
「皆さんに助けられて本当にありがたい」と感謝の言葉を沢山頂く。その表情からは悲痛さは感じられなかったが大変な艱難辛苦に遭われてのこと。その辛さや悲しみは想像を絶する。
水分補給と休憩を頻繁に取りながら作業を続ける。
スコップで土砂を掘り起こす。表面は乾いてるのだが、掘り返すと湿っており海のヘドロと同じ悪臭がする。
土砂とガレキを土のうに入れて一か所に集める。
これだけの単純な作業なのだが、なかなか進まない。
30代の男8人がかかっているのだが、改めて人間の力は無力だと痛感する。重機は足りないようだ。
撤去するガレキや土砂の中には農作業用品の残骸が多い。
そしてたまに台所用品や本、写真が出てくる。
写真はボランティアセンターへ持ち帰る。そのまま「思い出かえし隊」へ送られ、再生されて持ち主に渡るよう展示されるそうだ。
コンビニおにぎりで昼食とって昼休憩。午後の作業は移動の為に早めに切り上げた。
Y夫妻とともに記念写真を撮ってセンターへ戻る。
お礼だとジュースを頂いた。
センターのスタッフに現況を聞く。
土日はボランティアも多いそうだが、平日が少ないという。これから夏休みに入るので学生のボランティが増えることを期待しているそうだ。
被災者宅の内部復旧作業はやや目処が付いたらしい。これからは側溝などの周辺の生活インフラ復旧にかかり、避難所から自宅へ帰還する為の整備を進めたい、という事だった。
「心をひとつに」とプリントされたTシャツを求め、センターを跡にする。
人数分のおにぎりを頂いた。とっても美味しかったです。
短い間だったが、復旧作業にかかわる事が出来て本当に良かったです。
私の個人的な感想だが、復興へ向けての希望を感じることができた。
復興作業はどうしても公共的な道路や建物が優先されてしまう。それは仕方のないことだ。
公平性を鑑みるあまり、赤十字に寄せられた義援金も被災者へは届いていないというニュースも記憶に新しいだろう。
ただ、何千、何万という世帯が被災しており、個人宅の復旧作業を思えばまだまだ道のりは遠い。
だからこそ、まだまだみんなの力が必要だ。
ビジネスホテルに泊まって観光しながら、1日だけボランティア作業、という工程でも良いのではないだろうか。
仙台では大きな祭りも開催されるし、牛タンも美味しい。なにより東北の酒も旨い。
ボランティアが迷惑になる、という時期は過ぎたようだ。テントなどを装備した自己完結型でなくても良いと思う。
(自己完結型が不要になった、という訳ではない、まだテント暮らしでのボランティアによる被災支援は続いている)
誤解を恐れずにいえば、気軽にボランティアに参加してほしい。
東日本の皆さんは、みんなの元気を待っていると思います。
心ひとつに行こうじゃないか。