大村護国神社例大祭祭詞

素晴らしい祭詞に感銘を受けました。
原文を頂きましたので皆さんにも。

桜花爛漫のここ草場が丘に、多くのご遺族の皆様、ご来賓並びに関係皆様方のご臨席を仰ぎ、大村護国神社の例大祭を斎行するにあたり、御社に祀られる御霊に対し謹んで祭詞を申し述べます。

本年は神武天皇ご即位から二千六百八十二年目に当たり、我が国は長い歴史を積み重ねて参りました。
その間には、幾多の戦乱を繰り返し、明治維新、新生日本の誕生となりました。打ち続く内乱に大村藩は戊辰戦争において朝廷側に組みし、北伐軍として三百二十六名が参戦、浜田謹吾少年鼓手を始め多くの戦没者が生じました。

大村護国神社の起源は、慶応三年千八百六十七年正月三日、佐幕派の凶刃に斃れた志士、松林飯山を祀るため、明治元年千八百六十八年に第十ニ代大村藩主大村純煕候が大村市街を望む眺望絶景のこの地に建立し、四月三日を例祭日と定められました。

当初は旌忠塋(せいちゅうえい)と称されていましたが、明治七年に招魂社、昭和十四年に大村護国神社と改称され、建立以来百五十四年の歳月を経て、現在に至っております。

大村護国神社には維新の殉難者や戊辰の役の戦没者を始め、旧大村町、大村村、西大村地区の日清、日露、日独戦争、満州・支那事変及び大東亜戦争における戦没者並びに昭和十九年十月二十五日の第二十一海軍航空廠に対する大空襲で命を落とされた殉職者、さらには陸上・海上自衛隊の殉職隊員など八百六十柱が合祀されております。

諸霊には時代はそれぞれ異なるものの、何れも祖国を思い、家族の行く末を案じながら、熾烈を極めた戦場に倒れ、また、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥かな異郷の地で命を落とされ、更には、職場において不慮の死を遂げられ、志半ばにして殉難されたものであります。

今胸に手を当て目を閉じる時、それぞれの激戦地等でひたすら我が国の勝利を信じ、世界の平和を希求しつつ身を投じられた皆様の悲痛な叫び声、そして第二十一海軍航空廠における殉職者、陸上・海上自衛隊の殉職隊員の皆様の無念の声が聞こえて来るようであります。

皆様の祖国日本は、現在自由で民主的な国として、私達は平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、私達は、片時も忘れません。

「よとともに 語りつたえよ 国のため 命をすてし 人のいさをを」

この御歌は、明治三十七年に明治天皇が靖国神社の英霊に対してお読みになられたものであります。

私達はこの御歌に込められた思いを胸に刻み、皆様の尊い犠牲を永遠に風化させてはなりません。

そのご意志を重く受け止め、これからも毎年この日に例祭を厳粛に執り行うことをお誓い申し上げます。

そして、今現在、ロシアのウクライナ侵略によって、世界の安全保障情勢が大変厳しくなっています。核保有国が領土拡張を目的に他の主権国家を侵略、無差別攻撃により市民は虐殺され、都市は焦土と化し、ウクライナ国内外での避難民は一千万人を超えています。

このような侵略戦争は断じて許されません。今後この戦争が、我が国周辺や東アジアの平和に如何なる影響を及ぼすのか注目される所であります。

その様な中にあって、当護国神社では、五年前から諸霊が希求して止まなかった、世界平和を祈念し、国連が定めた九月二十一日の世界平和の日に因んで、全国の護国神社と足並みを合わせ、奉納揮毫による平和祈念行事を開催致しております。

この行事を通じて、聖徳太子が推古十二年六百四年に制定された十七条憲法の第一条に書かれている「和を以て貴しとなす」の「和の国日本」を国内外にアピールし、護国神社が世界平和の拠り所となる様今後も務めて参ります。

諸霊におかれては、引き続き日本の国家・国民の安泰と世界平和、そしてご遺族に対してご加護を賜らんことをお願い申し上げます。

  結びに、御霊の永遠に安らかならんことを改めてお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様のご平安を心から祈念し、併せて新型コロナウイルスの一日も早い収束をお祈りし祭詞と致します。

令和四年四月三日
大村護国神社総代長
上松大八郎

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