友人が父を亡くした
飾り気なしのオーソドックスな挨拶
いつも飄々としている彼が詰まり気味に発する声にご尊父への思いを感じずにはいられなかった
誤解を恐れずに言えば、司会が喋りすぎるショーアップ気味の葬儀が台頭している中、清潔な印象を受けた。良い葬儀だったように想う
私は感情の波が立つごとに、もし自分だったら・・・とよく想像する
どんな親子関係が一般的なのかは知らないが、私は必要であるとき以外、父と言葉を交わさない。
職場も同じ、住処も同じなのだが、1週間ぐらい口を効かないなんてことはザラだ
冷たいか、と思うこともある
陳腐な表現だが、テレビに出てくるような暖かい家庭ではなかったし、問題も多かったほうだと思う。
責めたことさえある
一時は侮蔑した時もある
今は違うのか、といわれれば、依然釈然としないこともあるし、よく判らない
ただ結婚や将来のことや人生の岐路に立つことを重ねてきて、父の存在する意義を漠然と感じているようになった
1と0で構成されるデジタルな価値観では計れないものだ
最近は「似てきた」なんていわれても不愉快に感じなくなった
それが血の連鎖なんだろうか
それとも私は弱くなったのか
私は人当たりがいいと言われることがある
そして、冷たい人間といわれることがある
自分でも多面性を持っていることは分かっている
完全にコントロールはしきれてないようだ
人当たりのよさは父を見て知った
冷たさは自分を見失わないために身に纏った
やさしさと曖昧さは年を重ねて学んだ
私は父ではない
でも父の子だ
父はいつ死ぬだろうか
私はいつ死ぬだろうか
そんなことは分からない
が、いつ来るか分からない終わりに怯えながら
愉快に生きたいものだと思う