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長崎新聞の記事に違和感を覚えました。

6月19日付記者の目で掲載された「新人議員が一般質問をしないのはおかしい」という記事です。

しかし政治家となった以上、自身の動向を批判されるのは覚悟しなければなりません。ただ挑発的な記事だなあ、と思っていました。

 

そして当日の議会。

ある議員が一般質問で記事と同趣旨の発言を行いました。

私は一般質の場で他の議員を批判するような発言は不適切だとして撤回を求めました。

その議員は記事の話も持ち出し「あれはエール。撤回しない」との事でしたので、議会運営委員会の開催を求めました。

私はどうしてもエールには聞こえませんでしたし、批判とはいかないまでも茶化したようにしか聞こえませんでした。要するに、その発言に腹が立ったのです。

 

休憩中に正副議長・議運委員長との会談を持ち、怒号の応酬もありましたが、その議員がそれぞれの議員と話す、との事だったのでこれ以上は泥仕合、議運要請を撤回しました。

 

私はすべての一般質問に立ってきました。

しかしだからと言って、議員同士が一般質問をする、しないということを本会議場で論じるのは違和感があります。

質問する権利もあれば、しない権利もあるのです。

 

「一般質問はひのき舞台」

そのとおりです。だからパフォーマンス的な要素が強いと考えています。

傍聴する市民の側との情報量には圧倒的な格差があります。

無理筋だったり、市政に関係のないことだったり、既に決まっていることを発言し、アピールするような場面も少なからず見受けられます。

政治家ですからアピールも必要でしょう。しかし、そこには狡さも感じます。

私も覚えがありますが。

 

一般質問をしない=議員の仕事をしていない、との論調には違和感を感じます。

政治家に休息なし、とはよく言ったもので、「1時間のステージ」以外にも各課を回り膝詰で話したり、地域を回ったり、勉強会や会合に参加したりと議員の「見えない仕事」は山ほどあります。

市民の代弁者となるだけでなく、議員同士の主張をまとめるベテランならではの仕事は表に出てくることはありません。

いぶし銀のような「政治の業」があるのです。

 

そして、そこには

・自分は質問している

・やらない議員がいる

・だから私はやらない議員より仕事をしている

自戒を込めますが、そんなアピールの匂いがします。

そこにはパフォーマンス先行の政治が影を覗かせています。

 

当選して初議会で質問をしなかった議員はこれまで何人もいます。

初議会ですからまずは全体の流れを掴んだり、先輩議員の質問を見て勉強する、という態度はごく当たり前だと思います。

政治家はスーパーマンではありません。議員になってみなけれりゃ判らないことが山ほどあります。

9月議会までにじっくり準備をするという安全運転は批判すべき態度でしょうか?

 

重ねますが、私は毎回質問しますし、インフォーマルな場では質問するべきだと発言しています。

しかし本会議場で「質問する、しない」といった議員の色分けはなじまない。

有権者の信託を受けた議員がそれぞれの信条や葛藤の末、政治態度を決しているのです。

私はそれを尊重するべきであると考えています。

そもそも議場で論じるべきは政策や市民の幸福、市政の発展です。

 

そして、一番危惧するのは「思考の劣化」です。

見えるところだけで判断してしまうような価値観が幅を利かせる事は、思考の劣化につながります。

 

表があれば裏があり、太陽があれば月がある。賛成があれば反対がある、白黒以外にグレーだってあります。

文脈に隠された意図や、その背景を読み解こうとせず、自身に好ましい主張ばかりに阿る態度には深遠さがあるとは思えません。

思考の劣化は価値判断の劣化につながり、政治の劣化につながります。

 

質問をする権利もあれば、しない権利もある。

選挙という「いくさ」の季節は終わりました。

私たちが論じなければならないのは、大村の未来です。

 

有権者の信託を受けた25名で大村の為の議論をしたいものです。